荒神山の喧嘩
荒神山の喧嘩
吉良の仁吉を語る上ではずせない物語が、映画や芝居、浪曲、講談で伝え続けられている『荒神山の喧嘩』です。
慶応2年(1866年)4月8日、現在の三重県鈴鹿市加佐登において「荒神山の喧嘩」が勃発しました。時は徳川幕府による長州征伐の噂でごった返していた時代のことです。むろんそういうニュースは仁吉の住んでいる三州吉良にも伝わっていました。
その年の三月も終わりに近づこうとする頃、次郎長の縄張りでいざこざがあり、次郎長の子分、大政らが百姓の家を焼いてしまう事件がありました。世間の手前、大政らは清水にいられなくなり、仁吉の下で厄介になっていました。
そんな頃、縁あって兄弟の杯を交わした神戸長吉(かんべのながきち)が仁吉を尋ねて来ました。仁吉は長吉との久しぶりの再開を喜び、長吉は仁吉を尋ねて来た訳を話しました。
長吉は黒田屋勇蔵の子分で、当時伊勢きっての大親分になっていた穴太徳(あのうとく)とは、もともと心を許しあった兄弟分の関係でした。
ところが親分の黒田屋勇蔵が仏心をおこして出家した後、角井角之助の陰謀にはまって4年間入牢している間、勢力拡大を目論む穴太徳に縄張りを奪われてしまいました。
仁吉はわざわざ自分を頼ってきてくれた長吉の思いに応えるため、大政ら総勢22人で伊勢湾を渡りました。仁吉らは加佐登神社で戦勝祈願をして、穴太徳率いる総勢130人と血戦に臨みました。
博徒同士の戦場は混戦で勝敗はわかりません。穴太徳側の頭領、角井門之助は「まず、大男を撃て」と部下に命じました。仁吉、大政とも長身だったからです。二人とも奮闘しましたが、仁吉は穴太徳側の猟師の銃弾を受け、身動きの取れないところを角井門之助に斬られたため、血しぶきをあげて倒れました。これを見た大政は仁吉を助けに行き、槍で応戦して角井門之助を討ち取りました。穴太徳側は頭領を倒されてしまったので狼狽して逃げていきました。
穴太徳側の戦死者は5人、仁吉側の戦死者は2人、重傷者は仁吉を含め9人でした。
敵の残した刀槍を片付けて石薬師に引き上げたところで仁吉は息を引き取りました。
荒神山の喧嘩の後、次郎長は翌年5月「仁吉の弔い合戦」と称して、子分500名近くを携えて穴太徳に喧嘩を挑みました。次郎長は戦いに勝利し、伊勢を配下に収めました。